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先輩の通夜参列


今回のブログは個人的なことです。
仕事関係ではありませんのでご注意ください。



3月17日、事業会社時代の先輩のお通夜に参列してきた。
先輩といっても僕より1コ上だけなので43歳。
自分の年齢42歳にもなれば、父親も祖父母も叔父叔母など
多くを見送ってきたけれども、そんな経験の中でも
昨日の通夜はとりわけ悲しかった。
その後、故人を偲んで多くの懐かしい方々と
日をまたいで飲んだ。相当量飲んだ。3軒目までは覚えている。
通夜では、こらえることができたが、さすがに
故人とゆかりのある方々と昔話をすると、
涙を止めることができなかった・・・。
家に帰ったあとも泣いていた記憶がある。酔っていたので
記憶が定かでないが。


再発して再入院したことも、
10日ほど前には、すでに意識がなくなっているとも聞き、
覚悟はしていたし、それなりの気持ちの準備もしていた。
当日は、泣かずに送りだそうと決めていたのだが。


故人は、自分がいつまでも泣いてばかりいることを
良しとは思わないだろうから、今の気持ちをこのブログに
書くことで、自分の中でひとつの区切りをつけようと思う。


故人は小山さんという。
新卒でその事業会社に入社したときに、1コ上に小山さんがいた。
(ちなみに、小山さんは今でもその事業会社にいる・・いた)
小山さんとの接点は2つある。


一つ目は、労働組合執行部の活動に同じ年度に加わったこと。
労働組合とは、今ではずいぶん懐かしいひびきだが、
約20年前は、55年体制のなごりが色濃くあり、
どの会社も労働組合活動は盛んだった。ある会社では、
労働組合活動に従事することは、重要なキャリアパスの
ひとつになっていたところも数多くあった。
(かなり隔世の感があるが)


そこに偶然にも同じ年度に加わった。しかも新たに参加したのは
小山さんと自分のふたりだけ。全員で9名と記憶している。
労働組合執行部といっても、その会社の場合、専業ではなかったため
業務時間中は通常勤務(当時はシステム開発?法人営業?)をし、
業務後、組合活動にあてていた。だいたい19時くらいから活動し、
終わるのは22時~24時。組合大会の前や賃金改定交渉前などは
タクシー帰りのときもあった。


話は少し脱線するが、
僕は、入社1年目から残業も多く(当時はバブル絶頂で、
ものすごく忙しかった)労働組合活動をしていたら、仕事がおろそかに
なると思い、最初は入ることに躊躇していた。
この時間が限られた中で、なんとかやりくりし、入る前と後で、
仕事のクオリティ・量を変えないことができた。
自分の時間管理の原点がここにある。時間が限られていると思えば
工夫をすることでなんとでもなることをここで学んだ。


さて、話を戻そう。
こんな活動していたので、その9名は、仕事ではないことで
四六時中一緒にいた。わざわざ会社を休んで、
3泊4日での合宿もあった。
自然と仲良くなるし、いろんな話もした。
真面目な組合活動の話が半分、あとはムダ話だったような。
そのムダ話が楽しかった。僕にとっては、大人の部活動だった。
そう、小山さんは部活動仲間である。


このときの小山さんとの思い出はいろいろある。
僕は当時は20歳代後半。まだまだ息巻いていた。
組合の代議員会には、各人の役割があり、
僕の役割は「ファイル投げ係」だった。
小山さんは「タバコ吸い係」が多かったな。
(なんのことか関係者以外にはさっぱりわからないだろうなあ。
 幡鎌さんと昨日、この話をした。)
思えば小山さんは、あのころからヘビースモーカーだった。
(ちなみに小山さんの死因は肺がん)


ファイル投げ係の自分は、
温厚な小山さんに何度もなだめられたっけ。
本当にやさしく真面目であった。

「よか?よか?」と当時組合で流行っていた九州なまりで
ムダ話から真面目な方向にもっていこうとしていたことを思い出す。


数年前にこのときの組合活動メンバーで飲んだことがある。
(1・2名欠けていたが大半は出席していた)
その当時のバカ話でおおいに盛り上がった。
同じ時間や空気を共有した仲間は、何年たっても
すぐにそのときに戻れることを再確認した。
次回は、今は名古屋にいる元委員長が帰京したときに、
開催しようとなっていたが、フルメンバーで集まることが
できなくなってしまった・・・。


2つ目の接点は、お互いに30歳代半ばになり、
勤務地が新宿パークタワーでのときだ。
なぜ仕事ではなく、場所で呼ぶのか?
その事業会社が外資に買収され、金髪の30代女社長が
いきなり現れた。会員獲得や収益を稼ぐ部隊などが
その新宿パークタワー勤務となった。この数年間は、
はたからみたら地獄であったんだと思う。
そう、この場所は戦地なのだ。
小山さんとはその戦地で一緒だった。戦友だったんだと思う。
戦友は10名くらいいたが、小山さんは群れるのは嫌いで
あったし、お酒もあまり飲まなかったので、
毎晩飲み歩いたわけではなかったが、心で通じるところが
どこかにいつもあった。


真面目な小山さんは円形脱毛症になったりしていた。
自分もときを同じくして、帯状疱疹をわずらってしまった。
こんなところもふたりは通じているのかもしれない。


小山さんは会員増強の施策や数字面をみていた。
僕のとなりのブースにいた工藤さんに、
「小山、どうしてこのforecast、こんな数字なんだよ」と
怒鳴られていたのを昨日のように思い出す。
(昨日、帰りのタクシーの中で工藤さんとこの話をした)


この新宿パークタワー勤務のときは、自分も良く働いた。
多分、一生の中で最も働いたんじゃないかとさえ思う。
(まあ、このときの経験で今、こうして起業できているので
 今はこの経験はものすごくありがたいと思っています。)
タクシー帰りは当たり前。週5日の平日、すべて
タクシー帰りだったときもあった。土日も関係なく出勤した。
そんなとき、小山さんもかなりの割合で残っていた。
直線距離で20mくらい小山さんの席と自分の席は
はなれていたが、小山さんが先に帰る時、わざわざ
声をかけてくれる。「無理するなよ、お先に・・・」と。
その声も忘れられない。


今回、僕は部活動仲間であり戦友である人をなくしてしまった。
それが、これだけ悲しい理由なんだと思う。


無償の愛で守ってくれる親や親戚との別れ。この種の
悲しみや支えを失う虚無感には、かなりなれたと思う。
でも、部活動仲間や戦友を失う悲しみにはなれていない。
というか、初めての経験なのだ。
生きていくこと、それはこの悲しみにも
耐えなきゃいけないということか。


最後に。
小山さん、ありがとうございました。
転移もあり、つらい闘病生活だったと聞いています。
今は、ゆっくり休んでください。
いつか、また会いましょう。合掌。